■2016.9.2

琉球漆器こぼれ話② 金城聡子/浦添市美術館学芸員

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琉球王府御用達の漆器を整える「貝摺奉行所(かいずりぶぎょうしょ)」、
風変わりな名前ですよね。

琉球近海で捕れる夜光貝など貝類は食用以外に
漆器の螺鈿(らでん)技法に使用されました。
琉球漆器を代表する技法です。
ところで、
貝摺奉行所は実にお役所的で「どの漆器を幾つ作り、
材料はどれほど必要か」といった制作管理を行う部署でした。
奉行のほかに事務方の筆者、技術系の貝摺師、デザイナーの
絵師(えし)、素地担当、古くは磨物(みがきもの)、
御櫛作(おぐしつくり)・三線打(さんしんうち)がおり、
その場所は首里城を下った沖縄県立芸術大学付近と
考えられています。

史料に登場する貝摺奉行は1612年(薩摩侵攻3年後)の
首里系士族(琉球国の身分制度は士族か農民)毛氏保栄茂親
雲上盛良(もううじびんペーチンせいりょう)が最初です。
また、華僑(かきょう)村久米村士族の国吉は1636年に
中国福建省へ渡り3年滞在して螺鈿技法を習得し貝摺師へ。
23年後に今度は染織を学びます。
このほか朱塗や黒赤(くろあか)梨地(なしじ)、金銀箔の製造、
煮貝(にがい)や堆錦(ついきん)の方法など漆芸の技法を中国で学ぶ
パイオニア達がいました。

1609年の薩摩侵攻の際は10日間にわたり薩摩軍は
首里城から大量の宝物を持ち出したといいます。
琉球文化の再構築はこの時から始まったようです。
それにしても「唐旅」は生死をかけた旅でした。
国に貢献する志と将来への希望を抱き、
異国で奮闘する士族らの姿が目に浮かぶようです。

 

 

写真

貝摺奉行所跡から採取された夜光貝(浦添市美術館所蔵)

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